Gallery talk : グラス・ルーツと草の絵のはなし

川井昭夫×鷹見明彦(美術評論家)

 左:鷹見明彦氏 右:川井昭夫

 

鷹見明彦氏は、2011年3月23日肝臓がんのため亡くなられました。こころよりご冥福をお祈りいたします。

麻布・square 09-1 

Acrylic on linen-canvas 

73×73cm 

2009

表現までの覚え書き

鷹見明彦(以下、鷹見):川井さんとは、一年前にお目にかかったばかりなので、実際に個展を拝見するのも今回が初めてです。冨山にお住まいで近年は大阪や京都で発表されていますが、東京での個展は15年ぶりとか。この間なんどかメールをやりとりしたり、資料をいただいたりするなかで、わたしなりに考えたこともありますが、とりあえずは少し、現在の作品にいたるまでの経過について、お話をうかがいたいと思います。1948年生まれ、団塊の世代は、1960年代のおわりが20歳ぐらいですね。美術との接点や出発点あたりは、どうでしたか?

川井昭夫(以下、川井):わたしは、子供の頃から絵が好きだったので特に違和感なく自然に美術の方に進んだというふうに思っています。た だ青春時代は順調ではなかったものですから、紆余曲折しながら自分な りに美術を学んだといえます。高校時代に原始美術から中世、近世そして近代へとおおよそ自分なりに時代に沿って勉強したんですね。ですから美術史的な流れからいけば、スムーズに20歳頃には最先端の現代美術にすんなり入って行けたように思います。

鷹見:お生まれが石川県で、長年、富山にお住まいですが、とくに現代美術の場合、川井さんの世代なら、なおさらそれは都会の文化だったと思いますが。

川井:高校までは石川県にいたのですが、それ以後受験とかで東京に出たりして・・、いろいろ家庭的な事情があって、どうしても一人で生きるしかない状況になりまして。それでちょっと富山に個人的な関係で関わる人がいたので、そこへ一時的に立ち寄ったのが、そのまま居ついてしまったということです。ですからわたし自身そのころからは自分の人生に対して積極的ではなかったのです。受動的といいますかね。かなり大変なことに成っていてもそれを認めてしまう。そういう傾向は若いころからあるんでしょう。そう思います。それは今では自分の表現の形にぴったりだなと思いますけど(笑)。ですから、わたしの場合はあまり障害とは思わなかったのです。現代美術そのものがアカデミズムと対極にあるものですから、『美術手帖』などの情報もあって、常に新しいものが出てきてそれを吸収するということでは、まあ、変わらないですね。ただオリジナルなものを見てるか見ていないかの違いはあると思いますね。それと当時美術全集なのに、わりに新しいものを扱った『現代の美術art now』(講談社)という全集があっ たんです。それには最先端の現代美術が紹介されていたんですね。中原佑介さんや東野芳明さんが編集で、「ポップ人間登場」とか「構成する抽象」とか「記号とイメージ」というようにテーマ別にシリーズに分けて。そこらへんは非常にまじめに吸収しました。ですからあまりハンディはなかったと思うし、時折オリジナルな作品に触れる機会もありましたしね。

鷹見:60年代から70年代にかけては、海外の情報や動向に呼応した現代美術が、国内的にもかつてない広がりで早いテンポで出てきた現象があったかと思うんですけど。その現場、たとえばネオ・ダダの舞台だった読売アンデパンダン展とか、その後の毎日現代美術展、東京ビエンナーレなどで発表されていたような作品をご覧になる機会はありましたか?

川井:やっぱりオリジナルなものはあまり見ていないと思いますね。最初にわたしが見たのは、シェル賞で高松次郎の影の作品が賞をとったときは記憶にありますね。それは大学受験で東京に出てきたときに見ました。あれは60年代末ですかね。その作品を見て、非常に現代美術に興味を持ちました。これまで自分が見たり学んできた美術のスタイルと全く違うというのがそのときわかりましたね。今から思うとヌーボー・レアリズムというか、そういうものに近いものだとわたしは思いますけども。高松さんのそれは、非常にわたしにとっては印象深い作品でしたね。

鷹見:シェル賞っていうのは、近年再開されて絵画コンクールになっていますが、当時は現代美術の登竜門のひとつでした。読売アンパンや毎日の現代展とはちがって、シェル賞は、絵画や平面作品のコンクールだった印象がありますが。初期の関根伸夫なども。

川井:そうですね。位相数学を元にしたような。それをレリーフ状に作品化したものですね。

鷹見:「位相-大地」はそれを三次元に展開したもので、もともとの着想は、視覚操作というか俗な言い方をすると“だまし絵”。

川井:そうですね。そういうところありますね。

鷹見:その元は、斎藤義重と高松次郎。

川井:どうでしょう、ちょっと違いますね。高松さんの作品は、たんなるトリッキーなものではなくて・・・。うまくいえませんが、騙されていることが判っていても、不思議な視覚体験が持続するというか。

鷹見:それで川井さんとしては、どういう入り方をされたのですか?

川井:当時はもうアメリカの新しい現代美術から、インターメディアやもの派や、いろいろありましたでしょ。それをとにかく吸収することに精一杯でしたね。だって『美術手帖』には毎号新しいものが登場して(笑)目を瞠っていたわけですから。ちょうど多感な時期ですしね。わたしは熱心に食い入るように見た記憶がありますね。ですから自分の表現というのはできなかったんですね。試行錯誤はいろいろありましたけど、自分の表現には至らなかった。残ってないです。そういう作品。ですから作品としてまとまるのは30歳くらいになってからなんです。でも大変おもしろかったです。

鷹見:その間も制作は続けられていたんですか?

川井:そうですね。思い出すと大変なんですけども。いろいろ、まねたようなことはしていたと思いますね。自分が特に感銘を受けたものについては、なぜ自分がそれに興味を持ったかということを自分なりに検証する意味でいろいろ試していたと思います。決定的に自分の表現に行き着く転機になったのは、アルマンの作品ですね。1974、75年だったと思いますが、たまたまフランスに仕事で行ったことがありまして。そのときにパリの市立美術館の展覧会で、アルマンの箱のなかにヴァイオリンを切り刻んでコンクリート詰めにした作品を見たんです。それが奥行きの深い細い展示空間に数十点も並んでいたんですけども、日本に帰ってから自分の中でそれがある新しいリアリティを増幅していった。それについてわたしは考えたんです。それが何なのか。それは今から思うと、リアリティの新しい形というフランスのヌーボー・レアリズムの作品だったと思うんですけども。それは非常にわたしにとっては表現を考える上でのひとつの転機になったと思います。

鷹見:アッサンブラージュの仕事ですね。たぶんアルマンがそのスタイルの作品を作り出したのは、60年代でしょう。1950年代末から60年代初めが、イヴ・クライン、アルマン、セザールたちのヌーボー・レアリズムでした。イタリアだとフォンタナ、それからマンゾーニ。ドイツだとグループ・ゼロ。そういう作家たちが、60年代以後のラディカルな現代美術の基盤を作った最前衛でした。ボイスやアルテ・ポーヴェラの前の世代ですね。

川井:マンゾーニは興味深い作家です。わたしの表現に最も近い作家だと思います。

鷹見:マンゾーニもそうですが、ヌーボー・レアリズムには、モノクロミズム、モノクロームの平面がありました。おそらく支持体の物質性への意識も早かった。アルマンの作品はどのあたりが気になりましたか?

川井:いわゆる視覚、目に映っているものの属性といいますか、それに注目したんだと思いますね。見えてるもの、知覚しているものに対する認知のありよう、それに新しい解釈があって、そのことが非常に重要だということに気づいたんです。ですから、ちょっとトリッキーなものとか当時ありましたけども、それは見るということに対して、一般的な概念的なものの見え方から少しずらして別の側面を意識させるように見せる。

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Plant Circle-1

杉林に苧麻 

1995

絵画の解体から            

鷹見:その後、70年代の後半から現在につながる平面/絵画作品を制作されるわけですが。

川井:絵画自体が持っている意味と言いますか、自分なりの検証をやってきたつもりです。それはおおげさに言えば「絵画の解体」というところへ行くわけですが。70年代当時はミニマリズムがあって、そこではキャンバスという物理的な部分にも注目するんです。観念だけでなく絵画の持っている物質性というものですね、そういう意味で絵画を解体したときに木枠に麻布が張られていて、それに油絵の具を塗って絵画というものができている。それを実際にやってこれ(麻布ペインティングのシリーズ)ができたんですね。生の麻布の作品がですね。麻は、支持体としての素材であり、絵の具自身も物質なんですね。色彩自体も物質を媒体にしているわけで、それは鉱物やメデュウムだったりするわけですが、それらをあらわにする方法として、両者の色を近づける作業を行うのです。限りなく麻の色に絵の具の色を近づけていくと、絵の具としての物質性が逆に見えてくる。

鷹見:時代性ということでいうと、1960年代末からの現代美術の解体方向が行き着くところまで行き着いて、だいたい70年代前半には一段落したわけですが、その前後は、絵画は徹底的に批判されていて、絵画を語ること自体が時代遅れといった空気が現代美術や美大の周辺にはありました。それを再構築していく作業にはいる時期が、日本では70年代なかばぐらいからはじまるんです。そのときに、たとえば『美術手帖』も、「絵画の平面と平面の絵画」みたいな特集を連続してやってました。カラー・フィールド、ハード・エッジやミニマリズムなどを、フォーマリズム的にポストもの派的に再考する。ロバート・ライマン、ルイ・カーン、桑山忠明、山田正亮、李禹煥・・・。平面、システム、ロウ・キャンバスの作品が取りあげられていました。

川井:そうですね。麻布のペインティングのはじまりは、当時のそういう流れにあったと思うんです。結局ミニマリズムが行き着いて本当に骨と皮だけになった。それで、もう一度手による表現というか、作家自身の手わざをもう一度取り戻して、絵画に肉を取り戻そうという動きがあったと思うんですね。それが当時はシステム・ペインティングとかパターン・ペインティングとかいっていた。ヌーボー・レアリズム後のシュポール・シュルファスとか、ある意味そういう流れと当時の日本のシステム・ペインティングというのは重なっていたと思うんですが。李禹煥の平面なども。

鷹見:李さんは、もの派を自作自演した論客でしたが、ある時点から平面、絵画に展開していくんです。それはあの周辺の作家たちの流れを見ると皆、70年前後から短期間で平面や絵画に戻ったり、彫刻的な作品をつくりだすとか、日本の場合はそういう展開の作家が多くて。李さんにも何度かインタビューをしたことがありますが、そこがすごく気になるところですね。海外の作家の場合は、その当時のコンセプチュアルやアンチ・フォームな作家にそういう展開はあまりないんです。ボイスやセラ、ソル・ルヴィット、ダニエル・ビュラン、アルテ・ポーヴェラの作家たちにしても。

川井:当時、物質やものに近づいた平面で興味のあるしごとは、日本にもいくつかあったと思います。もの派にも平面的なしごとはあったんです。菅木志雄さんにもありますからね。その部分がどうも展開しなかったといいますか。その後にニューペインティングがやってきて、わたしたちのシステマティックな表現というものがかき消されてしまう。そういうことがあったと思います。それは決定的なことでした。70年代の末に、モダニズムが終わって、ニューペインティング旋風が来て、ポストモダンと言われましたね。そのときにわたしたちの世代の作家たちはどうしたんでしょうかね。わたしは平面を捨てて、山に入ったんですけど(笑)。過疎の山奥の村で生きた植物そのものを使ったインスタレーションを行ったんです。わたしとしては地方にいるということで却って助かったのかな、そう思います。

鷹見:そのときに、キャンバスが麻であることは、植物とつながりましたか?

川井:そこのところで意識の転換があるんですね。麻布のペインティングの作品が生まれたときは、絵画の解体という流れの中で麻を選んだわけですけれども、しかし麻そのものは植物だった。・・・そのことが重要だとわたしは思っています。

鷹見:それは、どの時点で意識されましたか? 90年代初期のロウ・キャンバスの作品には、LEAFとかPLANTといったタイトルがありますが。

川井:かなりそこにはブランクがありますね。植物を使った作品などをやった後で、麻布のペインティングにしばらくしてからまた戻るわけですが。そのときは戻ったということが、植物と向き合っているということなんだ、ということに気づいたわけです。杉の林の下で《苧(からむし)》という植物をサークル状に植えなおした作品があるんです“苧”というのは、“苧麻(ちょま)”ともいって麻の一種なんですが、それがそこに生えていたことが偶然というよりは、何か不思議な因縁を感じたりしたんですけれど。

鷹見:色彩というか絵の具を限りなく地に近づけようとする、そのあり方は、昆虫の擬態のようですね。

川井:そうですね。わたしは、熱烈な昆虫少年でした。虫たちの擬態の見事さには、何万年におよぶ生存のための意志の積み重ねがもたらしたものだと思います。わたしが麻布のキャンバスやその後の草の絵でやっていることは、限りなくナナフシや木の葉虫に近い気がしますが。・・・そうやって近づいてみると、植物の繊維そのものなんですね、麻は。木綿と較べても、同じ植物ではあるけれども、ちょっと違います。より素朴に植物の繊維でできているものは、麻しかないとわたしは思うんですが。それがしかも人の歴史の中で非常に大切な位置を占めている。そういうふうな位置づけは、個人の表現にはあまり意味がないように見えながら、実はそうではない。ポストモダンというのはそういうことなんだと思いますね。わたしが、なぜ過疎の村を選んだかといえば、そこが近代化されなかった場所だったこと。近代化されないまま近代が終わっちゃったようなところで、もう一度日本人としての表現、自分の表現をそこで見直してみたいという思いがあって。それで何人かの作家に参加してもらう形で、過疎の村での試みを継続したのですが。モダニズムの美術が造形的な表現とか、そういうひとつの狭い範囲のなかで席巻することで、捨ててしまった部分ってたくさんありますよね。

鷹見:麻は、万葉の時代にも歌われているような、風土と文化の古層に根ざした植物ですね。素材としても、それは人間の往来以前からずっと大陸の方に広がりを持っていて、時間的にも空間的にも大きなフィールドに存在しつづけている植物でしょう。ポストモダンは、一般的にいうと、記号的にいろんなものを同時並列的に引用してくる。そういうモードが強調されていましたが、個人が時空をこえた回路につながりうる可能性が、そこに開かれていたと思います。

川井:それは草のイメージを使ったり、絵画に取り入れるところにつながっていったと思います。草の絵に専念してからは、植物を使ったインスタレーションですとか、そういうことをする必要がなくなった気がしますが。

 

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叢-3  

Oil on FRPpanel 

12×18cm 

2003

草の絵と反復と

鷹見:麻布のミニマルな平面の作品のあとに、平行して草の画像を描き込む絵画を制作する、その間にはどういうバランスがあるんですか? 70年代初めの絵画の解体と再構築について、しきりに言われていたのは、いわゆるイリュージョン批判ですね。

川井:草の写真をつかっていますからね。いわゆるイリュージョニズムに再び立ち戻ってしまったと思われるでしょうが、これは技法的な部分でも、説明すればそのことが違うということがわかってもらえると思うんですけど。つまり麻布の作品では、絵画的な表現としては何もつけたさないことを目指したわけです。このことは、草の作品においても同じことです。写真の上からぬり絵をするようにソックリに描く。描くというよりは、草のイメージを忠実に油絵の具の表面に置き換える作業を延々と続けるだけですから。

鷹見:70年代の途中からの揺り戻しの時期には、スーパーリアリズムやハイパーリアリズムの絵画が、一方でよく見られたり、シルクスクリーンで写真や映像を転写する作品も、たくさんありました。
80年代以降は、フォト・ペインティング・・・。

川井:スーパーリアリズムは、わたしはとくに興味は持たなかったですね。わたしの草の作品で写真を使うようになったのは、単に草の映像を絵画に取り入れたかったからなんです。写実的な表現に興味があったわけではなくて、写真の上から直接油絵の具でぬり絵することが、麻の上に直接同じ色で絵の具の線をのせるのと同じではないかと考えたからです。じつは、この間に、板の表面に直接木目にそってそっくりに油絵の具で描くしごとがあるんです。その延長線上に草の絵はあるわけです。・・・ 今話しながら気づいたんですが、麻布のミニマルな平面のしごとをしている自分の中で、他にも求める部分があったというか、麻布の作品ではカバーしきれないそういうものが自分の中にあった。それが草の葉っぱの交差するような視覚的にはそういうパターンなんですけども、潜在的にずっとありました。木の板を交差するように組み合わせてその上に紙を張ってドローイングするとか、麻布の仕事のあとにそういうことをやっているんですね。それについては、自分の中では矛盾がありましてね。それは自己矛盾として捉えていました。自己矛盾ではあるけれどもそれを許容した。「絵画の解体」というイデオロギーというか意思というか、そういうものではない、もっとトータルな自分の表現、全的表現が達成されないといけないんだというのがありますね。90年代以後はとくにそういう想いがあって。それが草なんでしょうね。草の写真を撮りだして、最初にわたしが興味を持ったのは、すすきの株なんですね。すすきの株っていうのは、突然ところどころに大きな塊となって現れるんですけれども。そういうものに興味を持って写真を撮りまくりましたね。

鷹見:たくさん植物がある中で、それははっきり見えるんですか?

川井:そうですね。中心があってそこから葉っぱを広げる。それがただ単に放射状ではなくて、交差する。そういう形態に対する興味がありますね。それは何なのかということについてはよくわからない。今でもよくわからないというのがあります。

鷹見:写真を平面の作品に使うのは、草のペインティング以前から?

川井:写真を撮ってそれを描くというのは、麻布のシリーズの70年代のずっと前からあります。その時は植物を見ながら描写するのではなく、一度写真に撮ったものを見ながら描き直していたわけです。でも、今やってる草の作品の場合は、そっくりそのまま写真の上にぬり絵するわけですから、かなり複雑な草の絡みも油絵になってしまう。この茂みの交差することへの興味というのが、わたしは重要だと思っているんです。それは麻布でも繊維が織られているので、隙間がある。こちらから裏側へ通過する視線が当然そこにあるわけです。織りに添って筆を入れるのですが、必ず塗り残しがあるんです。パターンの中に塗り残しがあって、麻地が見えている。そういうことが重要なんですね。視線が隙間を通過するというか。その意味というのを自分なりに考えています。それは大げさにいうとカタルシスというか、ろ過紙を水が通過して汚れを取るように、それとよく似ていると思います。日本人が一枚の障子紙を通して家の外と内を区切ろうとする。外の音や湿度を紙の繊維の隙間を通して感じる。そこにわたしはカタルシスというか、なにか精神性があるのだろうと。そういうことを常に感じます。唐突ですか?

鷹見:そんなことはないですよ。ミニマリズムやフォト・ペインティングなど、形式や方法的にみるとニュートラルな共通性を持った作品も、バックボーンの違いが現れてくる。むしろポストモダンからグローバリズム、マルチ・カルチャリズムになってくると、その質的な差異のほうが重要でしょう。

川井:それを意識するといいますか、意識化に向かう違いがでてくる。物事を認識することは、非常に多様なわけで、その中から糸をつむぐように自分の意識や意識下の部分をつないでいく。そういうことが必要なのかなと。

鷹見:そういうことでは、川井さんが、国文学者で歌人の折口信夫と戦死したその養子の墓所がある能登一の宮、気多大社ゆかりの羽咋のご出身と知って、そのような土地柄のなかで、植物に関わるような作品を作りつづけていらっしゃることにご縁を感じます。20代の頃、折口の「気多のむら 若菜くろずむ時にきて 大海原の音を聴きをり」といった歌に惹 かれて、訪れた場所でした。北陸で作品を作り続けていると、その場所、風土、文化性そういう潜在する背景は、どんなふうに意識されていますか?

川井:むずかしいですね。実際にそこに住んでいるわけですから。あまりそれを意識的にとらえたことってないですけど。以前、鷹見さんとお話したことなんですが、折口信夫の、ああいう詩や歌を読むと、いわゆる古代までさかのぼる地域に根ざした意識世界というものがあって、とくに折口の古代と向き合う在り様が、わたしが自分の表現と向き合うことと重なるようで、とても興味があります。

鷹見:その土地の持っている空気、光、水を養分にして、植物が自生したり、同じ種でも土地によって適応して変容していくように、人間もそういう時空間の中に生きていて、そこから花が咲いたり、葉を繁らせるのが文化だとすれば、よく言葉のことを日本ではその字のように「言の葉」といいますけれど、そこに世界の反映というか、反映よりももっと人間という器の底に蓄積された自然や世界の素地があらわれてくる場合がある。そういうことが連綿としてあると思います。それは現代とか近代とか短い時間で見てしまうと、変化だけが大きく見えてしまうけれども、川井さんが植物に触れた作品を作られた過疎で捨てられた村、そういうところに行くとリアルに見えてくることもあって。そこに流れる時間の中での人間の痕跡があり、それが植物に覆われて・・・そういう形で連綿と流れている時間のなかで変容しながら反復をくり返していくような。

川井:そうなんですね。やはり反復していく中で、あらわれてくるものがある。それが表現の本質だと思います。わたしの作品が、麻にしても草にしても非常に手間をかけて痕跡を残すということ。それはわたしなりのやりかたなんです。痕跡を、何も付け足さないように繰り返していく中で、総体としてひとつの何かがあらわれてくる。それはわたしでしかないものだろうと思います。そういうものが結局はいちばん信頼できる。そう考えています。草の作品でも手間をかけて、拡大鏡を覗き込みながら、本当に細い筆で、膨大な時間をかけて描いているんです。とにかくありのままそっくり描くという行為の積み重ねによって出てきたもの。それがわたしは、絵画の本質だと考えます。わたしが言いたいのはそれだけです。わたしの痕跡というものが、ものの表面に浸透していく、その痕跡だけが残る。そういうことなんです。その浸透していくときにひとつのカタルシスのようなことが起こっていて。それが見る人に伝わるということをわたしは望んでいるんです。そういうふうにやれたらいいと思っています。ですから、冒頭でもいいましたように、わたしのやり方はすべて受動的なんです。いわゆる自己表現としてこういうことを表現してるということではまったくない。何も表現しないということが、もたらす何か。それがわたしは自分が求めている大げさに言えば、究極の表現といいますかね。

鷹見:たとえば痕跡が砂に消えていくような砂漠では、ああいう聖書やコーランのようなきびしい二元論の言葉が必要として生み出されました。その対極にあるアジア的なモンスーン気候の土地では、仏教や原始神道の輪廻思想やアニミズムが生まれる。そこでの有無はちがうし、アジアの場合は、対象化がむつかしい。そういう風土論というものは和辻哲郎なども語ってきていますが、そこでの草。草の根、民草・・・。

川井:ああ、民草。わたしは無学でわかりませんが、ただ、そのことばで連想されることは、わたしにも経験があります。身内の法事の席で親戚が集まったときに、最長老の叔母がわたしのことを、「おまえもこの家に生えた草や」と。そういう表現をしたんです。それには非常に感銘をうけました。やっぱりそうなんだと。草なんだと思いました。

鷹見:家のことも“草の戸”というふうに言いますね。「草の戸も住みかわる代ぞ雛の家」。芭蕉の『奥の細道』の発句です。昔からこの風土には、草っていうものと人間のアナロジーがあったんです。「叢(くさむら)の古代日本のよろしさ・・・」と折口も言っています。実際見ていると、都会でもそうですが、地揚げされた空き地には、見る間に植物が繁殖してくるじゃないですか。あれは、ただリニアルに変化するだけではない世界の相のあらわれのようです。

川井:そうですね。人が自然を壊すと、そのあとを修復するために草は生えてくるんです。すぐそこに草が生えて表面を覆う。けれど困ってしまうんですね。毎日草むしりをしなくてはならない(笑)。そういうこともあるんですね。石器時代から人は草むしりをするのが仕事だったんですね。そういう苦労の積み重ねが遺伝子に組み込まれているんです。さきほど話した草の話とあわせて何か感じるのではないかと思うんです。 “草葉の陰”という言い方。何かわかりますね。草は生え変わりが早いんです。寿命が短い。けれど世代をくりかえしてつないでいくということなんです。その部分が東洋人の死生観というか、個に対する意識をあらわしていると思います。西欧人の個に対する考え方との決定的な違いだと思います。

鷹見:今日は、4月4日、このお話は、東京の桜が満開のさなか、地下のギャラリーで草々と麻布の絵に囲まれながら。

川井:はじめてお会いしたのが1年前。そのときもちょうど桜が咲いてました。不思議なめぐり合わせですね。

鷹見:ところで今回の展覧会のタイトルは、何でしたか?

川井:「表現がみえないように」という副題があります。この草の作品は、今回《草上のかおり》というタイトルがついています。これまでは《叢》というタイトルでした。草の上の香り。香りというのは目にみえない。けれども、ものに付着する。ものににおいが残る。わたしが撮っている草の写真は自然そのものではないんです。人間によって踏みつけられたりしてかなり痛めつけられた、そういう草なんです。においが付くように、草に人の痕跡が残るのです。

鷹見:宣長の大和こころの歌は、「朝日ににほう山ざくら花」でしたね。・・・「葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この道を行きし人あり」。折口信夫の歌集『海やま のあひだ』の最初の歌です。奥深い山中をずっと歩いて道なき道をいくときに、誰かが踏んで行った草のあとが道になっている、と。

(2009年4月4日 Kunst-bau |tokyoにて収録/text editor: Sinobu Sakagami)