『川井昭夫/絵画から植物へ、植物から絵画へ』p.10 植物は描くか

 photo:akio kawai     

表現は、人がもの(自然)に触れた時生まれる。それは始原的形態であるほど美しい。

では、表現主体が人でない場合はどうだろうか。たとえば植物の先端が、波状の鉄板(建物の外壁)に触れている。風が吹いて、いつしかそこに美しい弧の軌跡を印す。しかし、この場合は、植物の生育環境と建物が接近し過ぎることによって生じた物理的現象に過ぎない。まして、弧の形状は、植物による任意な身振りの軌跡などではなく、他者(自然現象)に因るものである。つまり、これは表現行為ではない。ましてや美術においての「表現」とは、あくまでも人の爲しごとであるとされている。

それでは、なぜこのように、この光景が私を惹きつけるのか。この植物は、人間の構築物に向かって両手を広げ、まるで主体的にドゥローイングしているかのように見える。ここでは、表現者であるべき人と植物が入れ替わっているのです。例えば、自然の直中に紛れ込んだ人は、自然に向かって行為するしかないように、都市の中に投げ込まれた植物は、自身(自然としての植物)の存在と身振りを人の領域の中で際立たせるのです。そして、この状況を設定したのは、私たち人間にほかならないのです。

あとは、この状況を設定することに表現者として意図的であるか否かでしかないのでは。

『つるバラの身振り』1998年 富山県八尾町  鉛筆・クレヨン