野積SIO-2001

 ■出品作品                        

   

北陸地域で制作・活動している現代美術家を中心に、現実の生活空間そのものを表現に取り込んだインスタレーション中心の発表です。特に、会場となる志雄町山間部の集落には、私たちの意識の古層に潜む東アジアの遥かに遠い記憶を呼び起こすものが、今も生きずいているように思われます。この地域で互いに共感覚的な意識で表現活動をしている作家諸氏が、こうした「場」と向き合い、新たな表現の可能性を模索する試みです。

〈開催日〉

2001年6月15日(金)・16(土)・17日(日)・23日(土)・24日(日)(5日間)

(会場)
原山舎(石川県羽咋郡志雄町字原237)及びその周辺

(出品者)

   荒井 明浩(砺波市在住)
   岩本 宇司(福井市在住)
   加治 晋 (黒部市在住)
   橿尾 正次(福井県南条町在住)   
   角 偉三郎(石川県輪島市在住)  
   川井 昭夫(富山市在住)     
   久世 健二(金沢市在住)     
   藤井 一範(富山県東砺波郡井口村在住)

(関連イベント)
   
■座談会 / 6月16日(土)pm2:00より
   
■出品作家による公開制作 / 6月16日(土)pm3:30より

 岩本宇司/藤井一範 CLAY WORK
  
■山下きよみ BODY WORK「薫習」公演 / 6月24日(日)pm.3:00-3:30

 body work [ku-n-ju]

〈主催〉 NOZUMI実行委員会  (協力) 志雄町

「野積SIO−2001」展に寄せて
 
大坪健二

 能登半島の付け根あたり、富山県と石川県の県境近くの山村、石川県羽咋郡志雄町原で、「野積SIO−2001」展が開かれるというので出かけた。この「野積SIO」展は、同地区に石川県羽咋出身の富山市在住作家、川井昭夫氏が廃屋となった民家を借り、補修、手入れをかねながら定期的に住み始めたことが契機となり、昨年から始められたもので、今年が2回目となる。昨年は、川井と富山県出身の異色の鉛筆画家、木下晋氏の二人展で、仕事の内容はともかく、山村で見るこの2人のとりあわせに少なからず驚かされたりしたものだった。
 が、それから一年後の今年6月、そこへ行くのに、車がやっと1台通れるほどの山道を、それも道の両側から道路を覆い尽くさんばかりに伸び放題の草を車でかき分けながら、やっとたどり着く、そうした過疎の山村の古い民家や倉、庭、周辺を舞台として開かれた第二回展の会場を訪れ、各作家の作品に対面してみると、近年、あちこちで開催される野外彫刻展あるいは現代美術展から受けるものとは違う、しかし、それについて何か考えておかねばならない問題や課題のようなものを意識させられることになった。
 それでは、いったい、それは、どういうことだったか。私は、この時、思い出したニつの展覧会を引き合いに出しながら、話を進めてみよう。

 日本の高度成長が頂点に達し、まもなくしてバブルがはじける1990年前後に、当時の日本の現代美術を紹介する二つの展覧会が開催され、話題となった。その一つは、1989年ニューヨーク大学グレイ・アート・ギャラリーを皮切りに、国際交流基金等の主催によりアメリカを巡回した「アゲインスト・ネイチャー:80年代の美術/Against Nature:Japanese Art in the Eighties」展(1)、そして、もう一つは、翌年、原美術館で開催され、その後ロサンゼルス・カウンティ・ミュージアムを皮切りに、同じくアメリカを巡回した「プライマル・スピリット―今日の造形精神/A Primal Spirit:Ten Contemporary Japanese Sculptures」展(2)である。
 この両つの展覧会が、話題になった理由は、まず第1に、それらが海外へ向けて日本現代美術を紹介する展覧会だったこと、第2に、いずれの展覧会においても、展覧会の立案や作家選考等にアメリカ人キューレーターの眼や関心があったことなどが挙げられる。が、そのもっとも決定的な理由といえば、両展覧会の、あまりにも対照的な日本の現代美術への視点だった。
 実際、前者の展覧会は、その展覧会名の「アゲインスト・ネイチャー」の<ネイチャー>を<自然>あるいは<人間の本性>等、どのように訳すにせよ、そこでテーマとされたものは、東京に象徴されるように、極度に人工化され、巨大化した都市環境や社会の中で生み出された、<反自然的>傾向の日本現代美術だった。
 これに対して、後者の「プライマル・スピリット」展でテーマとされたのは、西洋の眼や近代美術の立場からは、なかなか説明のつきにくい日本的現代美術の存在であり、こうした日本的現代美術創造の源を、古代の日本の宗教や文化態度、伝統に根ざす感受性や精神(プライマル・スピリット)に求め、そこから日本現代美術の一定の特色を明らかにしようとしたのがこの展覧会の主眼とするものだった。
 しかし、私が、会場をめぐりながら、ふと、これらの展覧会を想起したのは、10年後の今日からして、どちらの展覧会が当時の美術の様相を正確に伝え、また、どちらが、その後の美術の動向に大きな影響を与え、優勢となったかなどを詮索、問題とするためでは、もちろん、ない。私が、これらの展覧会を想起した理由、その理由の一つは、この「野積SIO−2001」展全体が<反自然的>とはまるで違う、過疎地で開かれる<反都会的>展覧会であったという逆説もあるが、それ以上に、各出品作家の作品が、多分に、先の<プライマル・スピリット>という言葉でしか説明のしようがない<雰囲気>、<空気>を発散していたことによる。その際、この<プライマル・スピリット>を、「プライマル・スピリット」展が行ったように、現代の作家たちの体内や感受性にも深く染み込んだものとしての日本古代以来の宗教的態度や自然観に帰してよいものかどうかは別とするとしても、この「野積SIO−2001」展出品作家たちが、能登半島の山間の村の自然、風土、歴史、民俗、暮らしに触発されつつ、各自がそれぞれ身に付けた造形手法を手がかりとしながら制作し、展示、発表した作品は、その背後に、確かに<プライマル・スピリット>としか言い様のない精神や感受性の所在を感じとらせるのに十分だった(この精神、あるいは感受性は、この展覧会ポスターやチラシのメッセージにならって、「意識の古層」あるいは「始原の知覚」と言い換えてもよいだろう)。
 と同時に、この展覧会を覗きながら思い起こされたことは、人が自然と付き合い、あるいは美術と自然が共存していくためには、<形>や<作品>を生み出し、自然に働きかける人間の側、美術家の側に<プライマル>な精神や感受性に基づく、それなりの芸術的倫理や作法のようなものが必要である、そうしたいかにも単純な事柄に他ならな かった。そして、恐らく、そうした節度が守られていたためだろう、この「野積SIO−2001」展には、各地で開かれる野外現代美術展やイベントにありがちな現代美術や彫刻の、自然や歴史的環境への不躾な進入、あるいは、そのようにして引き起こされる芸術と自然の対立や葛藤のようなものが、微塵も感じられなかったことは付け加えて置いてもよい。

 さて、「野積SIO−2001」展出品作家8人は、大まかに<現代美術>を仕事の背景とする作家たちと、<工芸>及び<工芸的世界>から現代美術を標榜する作家たちとの二つのグループに分けられるように思う。以下、この順序に従って、各作家の仕事を見ていこう。
 まず、前者のグループから。「野積SIO−2001」展の発起人である川井は、現代の重要な美術傾向の一つ、ミニマル・アートの画家として出発し、1990年頃から、この平面の仕事と並行して、自然や民家などの生活空間を作品に取り込むインスタレーションの仕事を行ってきた。今回の<PLANT CIRCLE− 神の座>及び<投入されたもの>も、彼の住居がある原地区から山一つ越えた<当ノ熊>地区の神社境内と民家の庭を場所として制作を行ったものである。その際、川井の芸術観の根底には、先に着手していたミニマル・アートについての彼特有の解釈から来る人間の表現あるいは造形行為に対する謙虚な位置付けがあり、そのことが、彼のインスタレーションの仕事の全体的方向とそのあり方を決定している。<PLANT CIRCLE− 神の座>と<投入されたもの>、この両者の制作の舞台は、神の住居としての神社、人の住居としての民家と性格は異なるが、川井がそれらの場所等への控えめな造形的かかわりや表現の投入を通じて語ろうとしたものとは、この当ノ熊地区にわずかに残された3軒の人々によって維持されてきた人間の暮らしや生命への畏敬、そして、これらの人々によって営々と守られてきた人間を超える超越的なものへの畏敬のようなものと言えるだろう。

 次に、加治晋。加治晋の仕事を初めて見たのは、富山県立近代美術館で1995年に開催された「富山の美術」展会場においてであった。その時、加治が出品していたものは、石を素材とした家型の作品他の積み木のような彫刻3点 だったが、加治が石材から形を生み出すだけの彫刻家でないことに気付かされたのは、加治がこの時、みずからの作品に取り込んでいた<水>の存在のためだった。
 実際、加治の作品に使われた日華石は、吸水性に富み、時間とともに、その内部に水を吸い上げるという。そうしてみると、そうした素材の吸水性の特徴を利用して制作、展示された作品は、その彫刻としての形やフォルムへの関心もさることながら、水の浸透という自然・時間現象を主題に、それを可視化させるための純粋視覚的な装置のようなものとして提示されていたとも言えよう。そして、この「野積」展作品<湿生>の場合、作品はさらに自然界に設置されることにより、それ自体、様々な自然現象(気象や季節変化など)の影響をこうむりながら、水の吸収、浸透という物理的経過やその痕跡を通じて、この大自然の営み、時間の流れを、私たちに気付かせ、一つの物語として話し聞かせてくれる。このように、加治においても、その芸術的関心は、単に目に見える作品の形やフォルムに注がれる以上に、人や作品をその一部とするような自然の現象や悠久な営みに関連し、その可視化に係わろうとする。
 私が荒井明浩の作品を初めて見たのも、加治の場合と同じ、富山県立近代美術館の会場においてである。荒井がこの時、出品していたのは、L字鋼の骨組みだけの1辺3 メートルほどの大きな立方体で、一方で作品の素材としての空間のマッスを立方体で示し、他方で作品の持つ力学を骨太の鉄骨構造で簡潔に示したこの時の荒井作品の印象は、今なお忘れがたい。この時、荒井自身の実際の造形的関心や狙いがどこにあったかは解らないものの、この作品が「野積」展出品作<空察>の基礎になっていることは間違いない。実際、以前の作品において、空間のマッスとフォルムを区切るため存在していた鉄骨の立方体は、ここではそっくり民家の和室空間に転用され、荒井の芸術的行為は、作品それ自体の外形を作る必要がなくなった分、この部屋の内部空間を取り囲む5つの面(床、天井、床の間、障子、板戸)を意識しながら、また、それらとの連関において、その内部空間を、室内に浮かぶ小さなマークによって分節することになる。こうして出来上がった<空察>は、古びた民家の薄暗い空間の中に、星座のように先のマークを美しく浮かび上がらす一方で、この薄暗い空間に仕舞い込まれ、堆積されていた、この家の遠い記憶、そして、ここで営まれていたであろうそうした暮らしの記憶を呼び覚まし、感じ取らせてくれる。

 岩本宇司と角偉三郎は、一方は現代美術、一方は能登の伝統工芸、輪島塗を背景としながら、木への強い愛着から、それぞれ特異な造形活動を展開している作家たちである。
 まず、岩本の造形活動の出発点は、行為性の強い一種のダダもしくはアッサンブラージュ的アートへの熱中から始まり、たとえば、1983年の彼の作品<ひきずられた電話帳>は、実際にオートバイで電話帳をひきずり廻し、この電話帳を暴力的なまでに傷つけ、この電話帳をもとの姿や形をまったくとどめない反文明的態度の象徴的オブジェへと変えてしまった。
 しかし、このことが示すように、岩本の作品の背後には、一種、暴力的な造形性が潜み、彼が作品素材や材料に何を用いるにしても、彼はもとの素材や材料に、生々しい暴力的行為の痕跡を与えながら、もとのものからは想像もつかない、新しい生命をもった形やオブジェを生み出してくる。何枚もの材木を組み合わせながら、生み出された今回の出品作<無題>の不思議な形も、世の常識からは、木の性質、木の良さをまったく無視した、反自然的作品に分類されても仕方がないだろう。しかし、この不思議な形が、民家の納屋壁に鍬や箒などの農具や民具、さらには何のためのものか判らない道具や木切れと一緒に立てかけられると、そこには、予想だにしえなかった不思議なくらい、なつかしさにあふれたものたち同士の調和が生み出される。それほどに、人間は自然に抱かれながら、さまざまな形やフォルムを生み出してきた一方で、自然はそうした形やフォルムを懐深く包蔵してきたということだろう。

 一方、角偉三郎の特異な造形は、岩本とはまったく対照的に、角自身が、それを生業としている輪島塗の世界を背景にして生まれてきた。その際、この「野積」展会場と なった民家の一室に、この展覧会出品作<黙森>とは別に、角の制作した器物が置かれていたが、そのすぐれた味わいを眺めていると、角が本業とは別の造形活動に、あえて挑戦しなければならない理由がどこにあるのか、不思議な気がした。しかし、このように、長い年月が培ってきた輪島塗という伝統的世界にも、それだからこそ、業界の常識として、伐採された木のうち、癖のあるものは、生産ラインからはずされ、捨て去られていくのだという。角が本業とは別に行う造形活動のため、主として材料とするのは、まさしく、これら輪島塗の生産ラインからはずれた木で、角は、こうした無用の木を何枚か寄木して卓のような平面的オブジェを作り、それに漆を施すことによって、新しい生命を吹き込もうとする。と同時に、今回の出品作<黙森>では、こうして生命を吹き込まれた等身大の平面オブジェが、かつて起立していた木々のように、あるいは、見るものの視線に挑戦するかのごとく民家の土間に垂直に起立させられ、座して見下ろす伝統工芸の水平的視線を拒否しているところに、角の断固とした意志のようなものを垣間見る気がした。

 久世建二と藤井一範は、いずれも土を素材に、活発な制作活動を行っている現代作家である。
 すでに現代陶芸家として長い経歴を持つ久世は、今回、民家脇の2階建ての納屋に、3種の作品を発表した。一つは、1階の床にシンメトリーに作品を配置した<痕跡シ リーズ 土の形>で、この作品では、中央に置かれた2枚の約50×70cmの粘土板から、久世が2様の仕方で粘土を掻き出した行為の跡が、そっくり正と負の関係そのまま残され、作品として提示されている。一方、2階に設置された作品<落下シリーズ>は2種類があり、そのうちの一つは、長さ約1m×幅30cm、厚み10cmほどの粘土板を、床に落下させ、そこに出来る偶然の形の上面に、再度、手や道具による痕跡を施したもので、焼成した土の黒と痕跡を強調するかのように施された金銀の対比が、納屋の薄暗がりのなかから荘厳な美しさを発散させていた。
 このように久世の作品は、土という素材に働きかける人の行為、あるいは自然の力を、柔軟に受け入れ、その作用をそっくり造形の力や形として表現するところに成り立っている。
 これに対して、藤井の作品は、同じく土を素材としながら、土の内部に仕掛けた爆薬を爆破させることによって制作される。久世の陶芸が、外部からの作用を柔らかく受け入れる受動的陶芸とすれば、藤井のそれは、極めて能動的で人為・人工性の強い陶芸と言えよう。しかし、総じて自然の営みが自然や物質の表面で起こる作用のみならず、物質内部の力の充満や発散によっても引き起こされるとすれば、こうした物質の内的エネルギーを主題とする造形作品があってもよい。久世と藤井の陶作品は、そうした土への対照的なアプローチの仕方を示している。

 最後に、橿尾正次は1960年代初頭に、針金で作った構造体に和紙を貼り、これに柿渋等を塗った立体作品を制作し始めて以来、一貫した態度で、和紙を使った作品を制作し続けて来た。その際、橿尾がかたくなに、和紙にこだ わってきた理由、そこには、彼の生まれ育った生活の舞台が、和紙の産地、福井だったということもあろうが、橿尾がこの和紙に、伝統工芸でもない、また、日常の生活感からも切り離されない、彼の言葉で言えば、「庶民的で明るく健康的な」その素材感に、新しい造形の可能性を芸術本能的に感じ取ったことにある。
 しかも、橿尾という作家の貴重さは、あたかも抽象彫刻の先駆者の一人、ジャン・アルプの「芸術は植物のように、あるいは母の胎内の子供のように、人間の中で成長する果実である」という言葉さながら、自然や人間の暮らしの中から学んだ何かを、ゆっくりと体内で温め、育て、こうして、出来上がってくるかけがいのない<形>や<フォルム>を、先の和紙の持つ素材感、表情とともに具体化し、この世界に、再び送り返そうとするその抑制のきいた芸術観にある。
 今回、橿尾が民家の一室のために制作した<白い塔>は、この古い民家で営まれていたであろう、そうした生活の記憶や時間や空間の記憶を、足元の畳から天井までとどかんばかりの、障子、灯り道具、籠ともつかぬ不思議な形をした紙の塔で掬い取り、集約して見せてくれる。しかし、さらに、この作品のかけがえなさは、この作品が、その内部に人を迎え、あたかも紙のかまくらのように、紙のあたたかい質感、紙を透過して入り来る光のぬくもりで、人間の五感や、こころをやさしく包みこんでくれることにあるだろう。橿尾にとって、人がそこに生き、人を包み込む自然や宇宙とは、そのようなものとして、見えているのではないだろうか。
                  

                     (美術評論家/富山県立近代美術館副館長)



(1)「アゲインスト・ネイチャー:80年代の美術/Against Nature:Japanese Art in the Eighties」展カタログ(1989年 国際交流基金)参照
(2)「プライマル・スピリット―今日の造形精神/A Primal Spirit:Ten Contemporary Japanese Sculptures」展カタログ(1990年 財団法人アルカンシェール美術財団)参照

野積SIO-2001カタログより転載