KAWAI AKIO

さりげなくしなやかなありかたから
片岸 昭二

たとえば、白い紙にかすかな手垢がついたり、しわができればそのしわのない部分や紙の白さがあらわになる。ほんのわずかな手の跡によってそのものの在り方、実在がはっきりと感知されるのである。また、木にとまった昆虫が木の葉や木肌にあわせた姿かたちでひっそりと身を隠しているとする。そこで、わずかな違いのなかにその小動物を発見したときはそのものたちの呼吸まで聞きとるほどのリアリティに遭遇する。
川井の表現のひとつに、麻布を支持体に絵の具をハッチングした作品がある。それは麻布の地肌の色に極力ちかづけた絵の具を置いたものである。絵の具と布地の素材は確かに違うものである。つまりキャンパスと絵の具の物の質が相互に浮き立ってくるのである。われわれのただ漫然と見る姿勢を眼を凝らす姿勢へと自然にひきこんでしまう作品である。
川井は「もの」を見えない状態というよりは、見えにくい状態あるいは判別可能なギリギリの極点にまでもっていくこと、もしくはその対岸からのプロセスで、その「ものの在り方」をとらえようとしている。雄大な時間と空間の狭間にある「もの」にわずかな緊張を与えることで、その存在をあきらかなものに仕立てる。さりげなくしなやかなありかたそのもののなかに普遍的な意味を見いだそうとしているように思われる。
われわれは注意深く絶え間ない観察によって視覚認識(判別)の反応や動きが素早くなるように思うが、視覚と認識の間にはなんらかの間隔、視覚的認識のプロセスとは別の、時間に属さない黙した瞬間があるように思われる。
われわれの日常の視覚の認識を鈍感にしているあらゆる条件づけから開放してくれるのは、この間隔の発見にこそあるのではないだろうか。この隙間にある沈黙の瞬間をみいだすためには知覚の過程そのものを理解することによって判ることなのかもしれない。さらに、この過程そのものが作者にとって瞑想的行為になっているのではないだろうか。その行為は日常からの逃避などではなく、または孤立したり閉鎖した活動であってはならないだろう。このことは自分をとりまくあらゆる世界とそのありかたを理解する行為であり、意識的な緊張や矛盾、葛藤や自己満足の追求などから生まれるものではなく、全ての行為の源泉となってこなければならないのではないだろうか。
そして川井は理解のための観察をし、ただ凝視することから始めている。現実にあるものすべてにたいして凝視するだけである。彼は物や自然、人間、さらに観念にたいして柔軟で鋭敏な観察者であろうとしている。
川井の作品の魅力は、ものの在り方、あるいはものをとりまく空間を繊細な風のそよぎのようなわずかな動きによって視覚認識にある隙間にみいだしているところにあるのではないだろうか。

(富山県立近代美術館学芸員)

[ギャラリー16] 1990 京都